150年近くにわたって効果を発揮し続ける、明治新政府の”ネガティブ・キャンペーン”


何のこっちゃ。

タイトルを見てそう思われた方もおられることでしょうが、
今回はちょっと歴史のお話をさせていただければと思います。

以前、歴史系の本やら雑誌やらの編集に携わっていたもので、
研究者の先生方に取材した折には、いろいろと興味深いお話を
聞く機会がそれなりに多くありまして。

じっさい、取材のたびに目からウロコがぽろぽろ落ちたものです。

今回は、そんな”目からウロコ”なネタをひとつご紹介します。

さて、タイトルにある”ネガティブ・キャンペーン”。

これは何に対してのネガキャンかといいますと、あれです。

幕末、アメリカのペリーが黒船でやってきた際の、幕府の対応についてです。

「当時、徳川幕府は鎖国をしていたから、海外の情報もろくろくもっておらず、
いきなりやってきたペリーの恫喝外交に屈した…」とかいうやつです。

私も近代史の先生にお話をうかがうまで、そんなふうに思っていました。

しかし、じつは幕府の対応はそう悪くなく、むしろなかなかいい線いっていたようなのです。

つまるところ、歴史上よくあるように、明治新政府が前の徳川政権をおとしめるべく
上述の「当時、徳川幕府は~」などといった、偏ったイメージを流布させた、
というのが実情だというわけです。

では、どのへんが偏った、というか正確でないイメージだったのでしょうか。

まず、「海外の情報をろくろくもっておらず…」。ここはまるで事実と反します。

ときの老中首座・阿部正弘(当時33歳)は、嘉永5年(1852)6月の時点で、
つまりはペリーがアメリカ・ノーフォークを出港する前に、
アメリカ艦隊が日本に派遣される予定であるとの情報を入手していました。

情報の出所は、オランダ商館長が長崎奉行に提出する、「別段風説書」などです。

そのなかには、アメリカが日本との通商目的等の条約締結を求めていることや、
そのために派遣される艦隊の陣容、東シナ海における米海軍兵力などが
記されていました。

ちなみに別段風説書は、イギリスが植民地で発行している英字新聞などをもとにしており、
この時の長崎奉行への提出書類には、その他に「ロンドン万博」「英仏海峡間の電信」
「アメリカ合衆国によるスペイン領キューバの占領」などが報告されていました。

こうした情報を得た幕府はもちろん対応に向けて議論をはじめますし、
現場にあたる浦賀奉行所も、ペリー艦隊来航の可能性を認識していました。

実際に黒船に対峙した際の、浦賀のお役人たちの対応も、なかなか健闘しています。

ペリー艦隊が初めてその姿を浦賀沖に現したときのファーストコンタクトは、
どのようなものだったか。

番船に乗って黒船に向かうのは、奉行所与力の中島三郎之助と、オランダ語通詞の
堀達之助。手に持った巻物を、黒船にも読めるように高く掲げます。そこには、フランス語で
「艦隊は撤退すべし、危険を冒してここに停泊すべきではない」などと書いてありました。

そして、番船はさらに近づき、堀は黒船に向かって呼びかけました。

“I can speak Dutch!”

こうして、日米交渉の口火が切られたのです。

ペリー提督は、日本人の対応についていろいろ驚いています。

ペリーはその著書『日本遠征記』に、日本の役人は、
アメリカでパナマ運河が建設中であることも知っているし、
艦隊の大砲が「パクサンズ砲」(フランス製の新鋭巨砲)であることも見抜き、
蒸気船の技術や構造について驚きの色をいささかもみせなかった、などと述べています。

その後、外交交渉がはじまります。幕府側の交渉役は、
おそらく中国の高級官僚なみに中国語に長けた、林大学頭復斎。

アメリカ側は、2000人くらいの艦隊員のうち、漢文がわかる人が2名、オランダ語は1名。

意思疎通がはかれる共通言語の習熟度においては、圧倒的に幕府側が有利でした。

じっさい、林は、「開国は、そろそろしたほうがいいと思っていたからするけど、
通商はもう少し待ってよ。うちは国内市場でまだ十分なんだし」と言ってみたり、
日米和親条約の英文版への署名を拒否したりとタフ・ネゴシエーターぶりを発揮して
ペリーを困らせたとされています。

少なくとも幕府は、けっして”弱腰外交”ではなかったのです。

こうした事実を知ると、なんだか痛快な気分です。

もちろん軍事力は圧倒的にアメリカに分があるわけですが、
昔の日本人は、歴史語りにおいてわりと守旧派の悪役にされがちな

幕府側の人たちだって、それなりにがんばっていたんじゃないか、と。

最近の日本も、本当にたいへんな状況ですが、たぶん日本人は、まだがんばれる。

今回ご紹介したエピソードを思い返すと、私はそんな気持ちになってきます。

(TM)

Page Top